昭和50年06月23日 朝の御理解
御神訓 一、
「清き所も汚き所も隔てなく、天地の神はお守りあるぞ。我心に不浄を犯すな。」
もう二十数年も前の事ですから、田主丸に秋山さんと云う御夫婦の方が熱心にお参りをして居りました。田主丸地区の共励会の始の頃は、この秋山さんのお宅で致しておりました位に熱心に参って来とりました。お爺さんと云う方が下の病気でした。それで私がお願いに見えた時に御神米を下げた。それでその患部に是を貼ってやりなさいと私くしが申しました、御神米を。けど親先生そりゃ勿体ないとこう云う訳ですね。
額にか手ならまぁ良いけれども、なら足位ならまあ良いけれども、言うならば言うなら一番汚いと思っておるその下に、下の所に貼るのは先生どげん思うても勿体ないと云うから私が申しました。汚いと云やぁ人間の体位汚い物はないよとね、例えばなら額口ならならば勿体ないと言う事はないのか、と額口に貼らせて頂く様な思いで一つ貼らせて頂きなさい。そして今度はね、額口にでも貼らねばならん。
手にでも頂かなければならんと言う時に、下にでも貼らせて頂く様な謙虚な心で。貼らせて頂たらおかげになるよと言うて申しました事が御座います。おかげを受けました。私くしはこの辺の所がね御神米、私くし子供の時から頭が痛いと云やぁ御神紙をこう額口に貼って呉れましたしね、お腹が痛いちゅ言うと御神米を頂かせて呉れました。もう御神紙、御神米又は御神酒さん、お水でおかげを頂いて、それこそ薬一服頂かんで、それかおかげを頂いて参りましたが。
私くし共は額口に貼る時には、バンソウコウ貼る積りで頭痛膏薬を貼る積りで貼ったんではおかげになりませんです。勿体ないそれこそ下にでも貼らせて頂く、はぁこんな汚い所に貼らせて頂いて済みませんと云う、そう言う気持ちが要るんです。かと云うてなら下の方に貼る時でもです、それこそ清き所も汚き所も天地の神は隔てなくお守りあるぞの事ですから、あの御神米の頂き方はそう言う気持ちで頂いて、御神酒を頂く時には我が心に不浄を犯すなとあります。
二代金光様、四神様は不浄とは、氏子の願いが成就しない事じゃと仰っとる。お道で云う不浄と云うのは、だから赤不浄とか黒不浄と云うけれども、そう云う事は不浄じゃないと仰った。昔からまぁそれは謹慎の念と言えばそれまでですけれども、荒神様にお参りをする。黒不浄の掛かっている家にまぁだ、亡くなってまだ忌中にある時なんかは、あのうお参りは出来ん。鳥居は潜っちゃならんと、云う風に云われたり思われたりして来た。また女の人の不浄のある時なんかは、荒神様にはお参りは出来んと。
けどもお道の信心所謂天地金乃神様の御信心は、そう云う事は不浄ではないと仰る。けれども自分の心にもし不浄を感じたならばですよ、こんなに体が汚れて居りますと今、言うならば死人を扱うて来たばっかりと例えば云うなら、自分の心に不浄があるならば不浄を感ずるならばです、先に断わりおいて願いある事を頼めとも仰っとられる。今私しの体はこんなに汚れとります。恐れ入りますご無礼で御座いますけれども。お許し下さいと云うてお詫びをして行けば、自分の心の中の言うなら不浄は消える。
また神様はそれをとがめる様な神様ではないと云う事であります。不浄とは氏子の願いが成就しない事を不浄と云う、不浄と言う事はね成る、成就しないと云う意味なんです。願い事が成就、だから私共はどうでも願いと云う物が立てたならば一心を立てて一心を貫きおかげを頂かねばいけないです。昨日と一昨日、久留米から或教会のやっぱ御信者さんらしいのですけどもお参りして来ております。息子さんが肝臓癌で九分九厘は医者が駄目だと云うんだそうです。昨日一昨日お取次さして頂きました。
昨日はもうそれこそ、感激一杯でお礼に出て見えました。親先生もう本当こんな不思議な事が在るじゃろうかとち、何かねもうそれっこそ大変汚い物がどんどん下り出したと、下に。だからそれを検査をして貰うた所が癌が下りよるちゅう、もう医者がたまがってしもうとりますと、それはおかげ頂いた。けれども後が良くない。毎日参らなきゃでけませんばってん、遠く何処か二日市か何処かおんなさるごたる風です。実際そりゃ遠う御座いますから毎日お参り出来まっせんばってん、どうぞ宜しゅうっち。
本当人間ちゃ本当ね云うならばおかげの手付け、おかげの印をはっきり見せて下さりよるとじゃから、ね、だから本当の物はまだ頂いてしもうとらんとじゃけんで、いっちょう其処ん所をです、私は一心を貫くと云う事はね、もうそこを頂き抜かねば不成になるです、ね。神様はその不成が一番嫌いなさると云う事です。不浄とは成就しないと言う事じゃと。此処二、三日私はもう本当にもう只奇跡と云う毎日その、それを感ずるけれどねもう本当奇跡と思わにゃ、奇跡ちゅ言うかね。
もう不思議と思うちゃならんと仰せられるが、不思議と思わにゃならん事があるんです。おかげを受けると云う事は。一昨日でしたかね、御理解の中に丁度二十日二十日二十日の菊栄会の終わった後に、私くし共が朝の三時まで信心話をしておったと、丁度その三時サア皆さん一寸でも休もうかと云うとる所へそのお願い参りがあった。もう兎に角夫婦喧嘩でそりゃすさまじい喧嘩である。
もう踏んだり蹴ったりもうサアもう出て行け、もう出て行けと何時も云うんですけれども、私がねサア大きゅうなれ、大きゅうなれと心を大きゅう持たせて頂いて、お縋りして行けと私が言ってたけども、もう今度は出て行けじゃない。もうはっきり離縁をすると、と言うてもう踏んだり蹴ったりの挙げ句にそう云う事であった。それでそんならば、私がお願いしとる神様、親先生の前ではっきり、ならば別れ話を付けて貰おうと云うて、もう遠い所からわざわざ朝の三時に参って来た。
丁度そん時に私共が高橋さん、秋永先生文男先生四、五人でお話をして居る所に、タバコに使う為にマッチが置いてあった。そのマッチを頂くんです、私しが。だからそのマッチになんと書いてあるだろうかと思うたら、何と云うても飲むなら八女茶と書いてあった。例えば主人が何と云うても飲んで行けよと云う事である。八女茶と言う事は、八と云う字は広がるに広がる女。おかげを頂く女と云う意味でしょう。
だから此のマッチを持って是が御理解代わり、生きた御理解だよ。だから是を持って自動車の中に待って居る主人に是を見せなさいと、親先生は別れろとも別れるなとも仰らなかった。只呑む事だと仰ったが私に悪い所があるなら、お父さんあなたも呑んで下さい。私があなたに気に入らん所は、私も呑みますとこう云う。お互いがそんな完璧なもんばっかりは居らん。お互いが辛抱し合うて行かにゃいけんと云うのです。それでその方を導いた方が丁度その晩も来ておりました。
戎浦さん夫婦で、だからその主人が自動車の中に乗っとると云うのでね、どうでん此処へ引っ張り降ろそうというんで、てんでこうこうやって降りらんと、とうとう降りられんで奥さんが自動車に行った時にゃ、もう別れられんならね、もう俺は是から歩いて帰ると云うてね、云うてからとうとう歩いて行きなさったから、自動車で後追いなさったけど何処さえ入んなさったか解らん。
矢張りこう本当に夫婦喧嘩ちゃと片一方だけじゃないですよ。やっぱ主人の方もそげん苦しかつですやっぱ。だから本当に片一方だけ、片口聞いて問答するなとはほんなこってす、もう本当に別れようか蹴るでん叩くてん言うばってん、蹴らにゃおられない気持ちもやっぱり有るとですよ。はぁ家の親父は横暴だとだけん言われんです。蹴ったり叩いたりせにゃ居られない、その心も矢張り汲まにゃいけんと私しゃ思うたです。
そしたら又朝の御祈念には奥さんが参って来とりますもん、とうとう見付け出しきらんでおる。それこそもうまぁどうして良いやら解らない。丁度文男先生がまあだ居りましたから、大体文男先生が導きですから。まあ色々お話を頂いて向こうて行って、まぁ結局はなら何と云うても呑むと云う事の訳を、私が色々と話してそれから兎に角帰れと言うて帰らせた。したら昨日の朝電話が掛かって来た。その導きされたそのう戎浦さんと言うお家に電話掛かって来た。
もうそれこそ本当にもうどうした、どう云う本当に神様のおかげちゃ新たかな事じゃろうかと云うのです。すぐにでも私がお礼に出らにゃならんけどもと云うて、電話が掛かって来たのは、今朝から主人が私に涙を流してお詫びを言うたと云うのです。是からは蹴りもせん踏みもせん、今迄の事は堪えちくれ、俺が悪かったと言うて断り言うから、もう狐に摘まれたごたる事じゃた。
そりゃ勿論それから先は聞かんばってん、お父さんあんたばかりじゃない、私も悪かったとまぁ言うたには違い在りませんけどね。だからその事を兎に角早くその親先生にお礼のお届けをして呉れと云う電話が掛かって参りました。それにはねその朝主人がこう云うお夢を頂いたそうです。真っ白い白衣を来た人がその枕元に座られた。そしたらその方がね、段々自分の亡くなった父親に変わった。
そしてその父親が言われる事はね、お前が〇〇さんを貰う時お前が好きで連れて来たとじゃないかてね、踏んだり蹴ったりする様な事はせんで、仲良うやって行って呉れと、そのお父さんが言わっしゃったそうです。その白衣のそのものがもう神様ですね云うならば。けど神様の姿ではその相手が解りませんから、父親の姿を借りて神様が懇々と言うて聞かせて下さった。そのあのう中にはね、イタチと云う動物が居りますね、あのイタチを自分が夢の中でもう切ったり裂いたりしよる所じゃった。
だからそげな事は止めりて、是はイタチと云う事には大変意味があるです。それも是は永くなりますから。けれどもねもう本当に是ぎりでそう云う様な事は止めて呉れと云う、事があってそれこそもう二人見る様にそれこそ手を付いて涙を流してお詫びされたと云う事です。もうどげん考えたっちゃ不思議で堪らんでしょうが。神様のこの働きと云う事をね、どうにもこうにも出来ない言うなら。
人間関係の上にもそういうおかげが頂かれる。もうお医者さんが九分九厘駄目だと云うて居られるその癌が本当に癌が下って仕舞うならです、もうおかげ頂く事間違いないです。兎に角昨日その話ではもう只お医者さんが不思議で不思議で堪らんと云いよんなさると云う事。まあ是で安心それけん是から暇のある時参って来ると云う意味じゃろうと思うけれどもね。まあ言うても解らん惜しい。
おかげを頂く一心を貫かなければいけない。だから私くし今日はね不浄を犯すなと言われる不浄と言う事は、成就しない事だと。もう本当にこう云う大変な神様の働きを頂きながら、それを貫ききらずにですそれが不成に終ると言うそう言う事を神様は嫌うと仰るのです。それはもう神様ではない、私でも残念と思うです。お取次さして頂いてああ惜しいなあと思うです。そしてそのままであったとするならば、おかげを頂き貫かなければいけんです。そこに信心は一心と定めいと言われる訳です。
昨日は田主丸のむつやの謝恩祭でした。今度新しく新築のお店が、もう本当に立派に出来ました。もう私は今度初めて参りましてびっくりしましたけれど、上町の所謂田主丸のま商店街です。田主丸の目抜き通に呉服屋をしとりましたけれども、今度その新しい通りに出て来た、そして今迄の店をベビーの店所謂ベビー用品専門の店にすると云うお届けがあって、まあ段々繁盛してるんです。
どげな店にしとるじゃろうかと思うたら私し昨日見てたまがった。もうちょいとあんその神様信ちゃん、おかげを頂いたねと云った事は、もうその店の造りのそのう何と言うか可愛らしいと云うか、あのうセンスの良さと云うかね、あそこん前ば通りよって、もし自分が子供でんあるならばちょいと入って見らにゃおられんごたる感じの店です。おかげで以来とてもその店が田主丸に今迄なかった訳です。
ベビーの専門店が、そちにまぁだお神様を奉斎し霊様をそちらに、まぁだ置いとりますからもう迎えに来た自動車の中でですもん、こちらのあのー新しい方には大広間、二階の大広間の方に、もうそれこそ教会のごたる立派な御神殿が今度出来ました。そりゃもうそれこそ桧の香のプンプンする様な、お道具も何んも一式この教会と同んなじ様な大きな八足です。八足でん何でん、そしてまあ見事な奉斉が出来て御本部に頼んでおった御神燈やらあのうとばりなんかも。
あのう几帳なんかも全部付いてもう本当に見事な奉斎が出来ました。それで私はそちらばかりと思いよった所が、その霊様にもちょいとお祭りして頂く前に、どうぞ御挨拶して貰いたいとこう云うのです。あちらを準備しとりますからと云うのです。それからならちょっと行こうかなと云うて、上町の方へ参りまして、上町ですかねあそこは、店に参りましたから二階に奉斉しとりますから。
上がらして頂きましてからなお又驚きました。もう此処で宅祭が出来るごと見事に、あのうお掃除からお供えから全部して御座いました。神様にもお礼申さして貰い霊様にもですね、もうお礼をさして頂きましたがです、私が霊様にお礼申さして頂いておる時、お野菜が見事にこう盛ってある中に小さい巾着なすびのお供えがこう盛ってあったです。そして私が御祈念拍手を打って拝もうとしよったら、その茄がポトッと下に落ちたんです。私はもう新選物が落ちたりする時にはもうひやっとするんです。
しかも茄が落ちたと云うのでです、茄のお知らせは此処では安心と言うお知らせです。ですからはぁこりゃ霊様が安心の御霊としてのおかげを頂ききって御座らんとじゃろうか、安心をおかげを落として御座るとじゃろうかと一瞬思うたです。茄が落ちましたから、そしたら神様が御心眼にあのう長い茄がやっぱりお三宝にこう盛ってあるその。そして御理解にですね、それこそあり余って落とす程に安心のおかげ頂いとりますと云う事でした。もう私くしはもうそれを頂いて感動しました。
だからそこで丁度参り合わせしとった方達だけで、そこであのう一通りの御理解をさして頂く位に有難かった。もうそこでお茶を頂かずすぐにあちらへと云う事じゃったけど、ちょいと待たんの、今私が頂いた事を聞いて貰おうと云うてその話をした事でしたね、本当にお互いがですね、折角信心をさせて頂くならんね、本当に安心のおかげの頂ける、その安心のおかげをあの世にも持って行って安心の霊としてのおかげを頂かして貰う様な信心をしとかにゃいかんです。ね。
只おかげおかげの信心ではそんな安心は生まれません。その私しは茄びが落ちた時にですそれこそ溢れる様に、それこそ取り落とす位に安心のおかげを頂いとりますちゅうのですから、そりゃそうでしょう。あの石井清子さんにした所で、田代さん女姉妹であんな大きな御商売をなさっとられる。本当に金光様信心しとりゃどうしてあげなに不幸な事が続くじゃろうか、と云う事続きましたあそこはね。
もうそれこそ日本一の優良児と云われとった娘がほんなアッと云う間に亡くなった。肝心要の社長さんである所の社長さんが亡くなられた。次には肝心要の柱である所の清子さんが亡くなられた。八十幾つ九十近いおばあさんがその後で亡くなられました。もう本当にね、例えば反対にでもなったらまだよかけれども、最後までもうそれこそ今の社長である信司さんがまぁだ若かった。
もう本当にむつやは是で潰れる。それから又それこそむつやの言わばお家騒動と云われる様な事件があったんです。高芝さんなんかそれを聞かれるたんびにお取り次ぎされた。むつやの事を皆んながこう云う風に言いよる、こげな評判があるよります。もうむつやも仕舞えたと。そりゃそうでしょう。そう云う様な事が続いた。しかもならまだそう云うね、まだ独身の番頭さん達は居るけれども。
結局店主が若いからもう言うならば信ちゃん信ちゃんち、から親父捉まえてから信ちゃん信ちゃんと云う位で云う事は聞かん、もう様々な人間関係の上にも、それっこそ泣き面に蜂と云う事が続きましたけどもです。私はこの信司さんばっかりは参って来てから怒らなかった事のない位に起こりました。色んな問題を云うて来るんです。それで私は先の話じゃないけれども、太る以外にないぞ、大きゅうなる以外にないぞ、とにかく大きなおかげ頂きたいなら大きゅうなれ。
大きゅうなれこげな所でも辛抱せんならんですかと云う位な時があったです。まあだ若ーい青年の嫁御も貰わん先ですからね。で、その起きて来るその問題が実に辛辣な問題っばっかりだったんです。本当に矢張り世間もうしまえただろう、もうむつやはと言う筈だと云う様なおかげを頂いた。所がです所がそのパッとこう目に付く程しのおかげじゃないけれども、何とはなしにおかげを頂いて来て居ると言う事実なんです。今云う様に一軒の店が二軒になった。
しかも両方とも繁盛して居ると云うのですから、今度の今時きゃまだそのうお店なんかでも調度品、勿論今度私くしが御祭りに行く前にまぁバタバタした事で御座いましょうけれども、本当に垢抜けした素晴らしいお店が出来とります。まぁよう此処まで、云うなら辛抱し抜いたねと、まあそれこそ云いたい様なおかげを頂いとります。勿論今度神様を奉斎すると云う事でも、それっこそもう何と云いますか、事神様ごとには金銭の事は言わんと云う位に立派に出来ました。
お道具でも何でも。天地書附けの額なんかでも立派に出来とったけれども、私しは是じゃいかんから、あのうこげんとば作れ(御神殿の外殿に掲げてあるもの)ちから、是よりもう一寸型の小さい、もうそれこそもう一事が万事、そういう行き方で昨日のお宅祭は仕えられました。 そしてまぁあちらでも話させて頂きましたごと、そう云う様な風評又は悪評の中にです、けれども何とはなしにおかげを頂いとると云う事実がね、有難い。何と云うても私共は信心の云うなら。
霊様が安心おのおかげを本当に本当に豊かな安心の御霊様、安心のおかげを頂いて居ると云う事は、あの世にも持って行かれこの世にも残しておけると云う、御神徳を受けとったと云う外にはないと私が申しました。先日か申します様に霊さんが子供の為に働いて下さる事は出来ない、けれども自分自身がいよいよ助かって行ける為の、言うならばいよいよ安心の場と云うものが広うなり、霊の世界で働かせて貰う力が愈々付いて来る。そういうおかげを頂き御座る。
成程お徳と云うものはあの世にも持って行け、この世にも残しておけると云う。そのこの世にも残しておけると云う。残してあったのを信ちゃんが青年時代からそれこそ泣く泣くでも辛抱し抜いて、その遺しておられる徳を言うならば、掘り起こした様なものだと昨日私は話した事でした。如何に徳が残っておると云うても是は露出しとるもんじゃありません。それは〇〇教会なんかはそれこそ、生神様の様な先生で御座いましたけれども、二代より三代になるに従ってまだ衰微しとると云う教会があるでしょうが。
だからお徳と云うものは露出しとるものじゃないです。だから二代を受け三代を受け継ぐ者がです、そのお徳を掘り起こさして貰う信心辛抱が、出来てこそその徳を現す事が出来るのです。是はむつやの場合でもそうだと私くしは思うです。それこそ私くしから怒られながらです、それこそ有難いも何も解らんなりにです、只苦しいまぎれで只一生懸命信心させて頂いて今日まで。
云うならそういう難儀を踏み越え乗り越えて今日までおかげを頂いて居る内に改めてこう振り返って見ると、それが難儀な問題が皆んな一つ一つおかげになって、云うならば大きゅうなれ大きゅうなれと、言われるが大きゅうならして頂く稽古をさして貰よったら、一軒の店が二軒になったと言う事実から言うてもおかげじゃないか、しかも二軒の店が繁盛して居ると云う事実なんです。
なるほどお徳と云うものはあの世にも持って行ける。持って行って霊様が安心がこぼれる程しの、おかげをを受けて居ると云う事、と残ると云う事は、信ちゃん達は特別な信心が出来ておるとは思わんけれども、残って居る徳をただ、信心辛抱泣く泣くでもそれを掘り起こして行く働きをしたところに、今日のむつやの繁盛があると云えるのです。昨日ある方が不如意な商売の思う様にならない事の、お届けがあった時に頂いた御理解ですけれども、日章旗を頂いた。
白地に赤く日の丸染めてと云うこの日章旗です、それの上に白扇を一本こう置いてある所を頂きました。白扇のこう勿論こう畳んだやつですね、扇が置いてある。もうそれこそつう一杯の信心が出来よんなさる方ですけれども、もう一つ此処ん所を一心とか真とか言う一心の追求真の追求しなければいけないよと云う御理解でした。私くしは昨日その事を頂いて改めて解らせて頂いた事はです、一心と云い真と云うけれども、自分の事に一心を立てるとか自分の事に真で御座います、なら誰でも出来る。
自分の事と下り坂は急がん者はなかと云う様なこってす、例えばならお国が乱れると忠臣が現れると昔から言われとるが、その忠臣は自分と云う物を度外視してお国の再興の為に、言うならば働くと云う人を忠臣と云う。云うならば赤い心です、ね。自分と云う物を空しゅうして、お国の為に云うならば忠義を尽くすと云うそれが真でありそれが一心なんです。それを貫くと云う事は、そこでです自分の事の為に日参り、夜参りどがしこ出来とったっちゃね、そりゃ真の事して真じゃない。
一心と言うて一心じゃないちゅー云う事です。本当の一心とはならそう云う信心を似て教会の事を祈るとか、道の事を祈るとか、その道の為に一心を捧げると云う様な、生き方にならせて頂くと云う事が一心。そこに言うならばこの扇子が必ず広がって行くおかげになると云う事。赤い真、赤い心、真一心がです、云うならばこの扇子を末広がりに愈々広がして行く事の出来る様な、おかげが受けられると云うのです。
だからね初めの間に例えば人の事ども祈られる事はありません。それは祈られん事が自分の事で一杯です。誰でもそれぞれに難儀を持っておるのですから、所が不思議に信心の稽古を段々させて頂いて居るとです、此処では沢山の人が親先生の健康を沢山の人が毎日お届けをしておられましょう。合楽教会大発展の事を一生懸命願っておられましょう。そう云う風に、例えば自分の事ではない、教団の事を願い自、又は自分の頂いて居る教会の事をです、一心にしかも一心に真をもって祈り願い続けれる。
そう云う事こそ真であるのだ、一心であるのだと云うのです。私は是を頂いてから、はぁ成程私しがおかげ頂いた筈だなぁと改めて思います。初めの間は只親孝行したいばっかりじゃった。所がその親孝行と言うのがもっと上に親がある事が解り、所謂教会、親先生と云う事が、私くしの信心の焦点の眼目だった、其処ん所を一生懸命貫かせて貰いよったら、もっと大きな親がある事に気付かせて頂いた。
その親の為に私くしは一つ身を粉にしてでもおかげ頂こうと心を起こしたんですから、私がおかげを頂かん筈がないです。今言うなら合楽示現活動に参画すると云う様な運動もです、又和賀心時代を世界に拡めなければならない。為に私しは修行しようと云うのだから、私しがおかげ頂かん筈がないです。私の心を真として赤い心として、神様が受けて下さらん筈がないです。信心が段々成長して参りますとです、本当に人の事を願わなければ祈らなければ居られなくなって来るです。
神の心が強うなって来るからです。そういう一心を貫いてこそ、不成ではない一切の事が成就する。人間の幸の条件の全てが足ろうて来る様な、あれも成就是も願いが叶うたと云う様な成就のおかげを頂くと云う事がです、神様の御喜びであると云う事が解ります。願うとるばってん、あれもおかげ頂ききらじゃた。是もしだこだになった。是を神様はお嫌いになると云う事です。ね。
今日は言うならば不浄と云う事に付いて聞いて頂いた。不浄と云う事はお道では成就しないと云う事だと、なら成就のおかげを頂く為には一心の真を貫かなければいけないと云う事です。そりゃ印はそれこそもう医者がたまがる様にです、お願いした翌日から癌が水のごとなってから、溶け出して流れだして来たと云う事です。どうにも出来ない人間関係がです、それこそ相手が手を付いて涙を流しながらお詫びをする。
と云う様な働きと云う様な、凄まじい迄の働きと云う物を、私共は見る事聞く事が出来るっけれども。それを本当のおかげにして行く為にはその次の信心が必要だと云う事です。所謂真一心を追求する。愈々自分の心の神心が強うなってです、それこそ赤の他人は誰誰の事でも祈らなければ居られない、程しの信心が出来た時にです、不成と云う事がなくなる。一切がおかげに繋がって来る様なおかげになるのですよね。
どうぞ。